150 years of hamada : ai

【 愛 】
継承への道しるべ

手段と目的をはき違えないために、戦地を変えて東京へ。

1983(昭和58)年に濵田酒造は東京支店を開設します。我々の目的は、濵田酒造を日本一の本格焼酎メーカーにすること。そのためには東京や大阪などの大都市を攻めるべきだと考え、兄弟4人で問屋や卸を片端から回りました。
最大の山場は日本一の卸会社、国分でした。「一番弱小のメーカーが、一番後発で東京に出てきたね」と呆れられました。焼酎の市場はすでに飽和状態と思われていたのです。

【写真】東京進出用の「海門」のラベル

【写真】東京進出用の「焼酎伝説」のラベル

そこで私は、若造の分際で講釈を始めました。500年の歴史をもつ薩摩焼酎は、英国のスコッチに引けを取らない素晴らしい蒸留酒であり、日本の「國酒」と呼ぶにふさわしい豊かな文化的背景をもっている、しかしそれが世の中にまだ知られていない…と。そして、「本格焼酎の魅力を広く伝えるため、ぜひ力をお借りしたい」と口説き、その日のうちに特約が決まりました。また、国分が取引先の小売店や飲食店などを集めた焼酎講習会を各地で開催。私は講師として本格焼酎の歴史やエピソードを話す機会をいただきました。多くの人は、焼酎についてよく知らないまま売っていたので、大評判でした。

濵田酒造には注文が殺到し、初めてJRのコンテナで出荷しました。それに気をよくした光彦が新工場の建設に着手。ところが6月になると注文がパタッと止まり、返品の山になります。お中元シーズンで、小売店の倉庫に焼酎を置くスペースがなくなったためです。国分も小売店も積極的に本格焼酎をアピールしてくれましたが、ブランド力がないため、肝心のエンドユーザーが買ってくれなかったのです。

感覚や経験則をデータ化、システム化した
最新鋭の焼酎工場「傳藏院壱の蔵」

1985(昭和60)年に光彦が工場を新設した時は、頭を抱えましたが、この工場設計を担当した小川淳二さんの下で、現専務取締役生産統括部長の竹迫が工場づくりを学べたことは、大きな財産となって、その後の工場づくりに生きてきます。
2000(平成2)年、串木野の西薩工業団地に完成した「傳藏院壱の蔵」は、準備研究に10年をかけました。杜氏の持っていた経験則や感覚をデータ化して、量産化と安定生産に耐え得る工場を目指したのです。属人的な要素を組織化、システム化することは、経営上も生産面でも、家業から企業に脱皮する時に、欠かせません。制御を学んだマニアックな技術者を竹迫の下につけ、誰も見たことがない最先端の本格焼酎工場を実現しました。

醸造機材や設備のメーカーには「この工場はおたくのショーウィンドーにもなる。おたくの看板をつけていいから、費用を安くしてほしい」と、ムチャな注文をつけました。「まるでモデルハウスみたいだ」と言いながら、メーカーは承諾してくれました。完成したら、見学者がすごかった。焼酎メーカーはもとより、麦酒や清酒メーカーから、最初は営業マン、次に製造関係者、研究者、最後は経営者まで来ました。

【写真】昭和30年代に三井串木野鉱山から望む東シナ海の落日は海童の原風景

傳藏院蔵の芋焼酎第1号の名前は公募し、串木野が海に近いことから「海童」を選ばせてもらいましたが、その「海童」が翌年の本格焼酎鑑評会で、総裁賞代表を受賞したのです。つまりその年の最高芋焼酎という品評がなされた。「杜氏のいない自動化工場なんて」と最初は訝しがる人もいた傳藏院壱の蔵の評価が、これで一気に変わりました。

翌年、市来の本社の旧工場を、見学もできる焼酎蔵「薩州濵田屋伝兵衛」としてつくり直し、レストランや売店も併設。本社機能もここに集約しました。さらに2005(平成17)年に「傳藏院弐の蔵」を、また同年に串木野金山跡地を利用した「薩摩金山蔵」を完成させました。
工場や本社が新しくなると、体質が変わる会社もありますが、濵田酒造はならなかった。私の口癖は「謙虚にしておごらず。さらに努力を」ですから。

本格焼酎の歴史を語り、文化を語り、ストーリーを語る。
それが21世紀の本格焼酎の使命。

当時エンドユーザーに向けてのブランディングはまだまだだし、商品企画などに組織的に取り組める体制づくりは、着手したばかり。流通業界からは評価されるものの、エンドユーザー相手には、スーパーブランドのヒット商品をもつメーカーと対等な勝負はまだできていません。
小さな失敗はあちこちでやったし、濵田酒造にはホームラン級の商品はなく、こつこつヒットを積み重ねてきたのです。それでも潰れず、ここまで成長できたのはなぜなのか。手前味噌で言うなら、状況の見立てを間違えなかったからだと思います。いつもギリギリの取捨選択で戦略を立ててきましたが、見立ては間違っていなかったんです。

世界に向けて、本格焼酎の歴史を語り、文化を語り、ストーリーを語ることが、21世紀の本格焼酎メーカーの使命だと考えます。「本格焼酎を真の國酒へ、さらには世界に冠たる酒へ」、これが我々の目指すべきものです。
事業は、強いものや賢いものが生き残るわけではありません。事業は公共のもの。世のため、人のために役立つものだけが生き残ります。そこに自立自興の精神で取り組んでいけば、大きく間違えることはないと思います。後継者たちに少しずつバトンタッチしながら、しぶとく、一歩ずつ「公事としての焼酎造り」を前に進めていくつもりです。

濵田雄一郎

はまだ・ゆういちろう

1953(昭和28)年生まれ。
濵田光彦、秀子の長男。法政大学中退。
1991年に代表取締役社長に就任。
いちき串木野市商工会議所会頭、盛和塾本部理事。
2017年より鹿児島県酒造組合会長を務める。