150 years of hamada : ai

【 愛 】
継承への道しるべ

起業精神の
種を蒔く

私が濵田にいた頃 濵田総一郎

東武鉄道に入り骨を埋めるつもりになった25歳の時、突然、父光彦に家業が厳しくなったので帰って来いと言われました。
東京で充実した日々を過ごしていたのに、父は人事部長に手紙まで出し、これはしょうがないなと1980(昭和55)年秋に鹿児島に帰りました。
桶売りの未納税酒取引で脇を固めて、自社ブランドで売る日本一の焼酎メーカーになろうと励まし合い、そうするうちに県外に打って出る話となりました。県内ご出身の方から、食品卸最大手の国分さんを紹介していただき、先方から「全国区のメーカーになりたければ、東京事務所は中央区日本橋新川に構えなさい」と教えられました。
さっそく界隈を歩くと確かに老舗の醸造元が多く、新川と書いてアラカワと読む新川ビルに貸物件を見つけ、飛び込んでみると大家の息子がいらした。「通りがかったら、すっかり気に入ったのでぜひ借りたい」と伝えると、「不動産屋を通されましたか」と返されて。

「いえ、礼金敷金など大層かかるので、直接契約でお願いできないでしょうか」とやりとりするうちにお父さまが現れた。「あんたの話を聞いとったら、私が新潟から出てきた頃を思い出した。直接で構わんから成功しろよ」と逆に励まされて、契約にこぎつけたんです。
しかも厚かましく、今はお金がないけどここを拠点に日本一の焼酎メーカーになるので、焼酎を売って回収した代金で払いますと頼んだら、敷金なしの後払い家賃の提案をのんでくれました。
そうしてスタートした東京支店を兄が仕切り、私はそのまま大阪支店準備に取りかかりました。
道なき道を地図もなく進み、若造の割には二人とも臆せず、どんな大問屋にも「日本一の焼酎メーカーになりますから、特約を結んでください」と頭を下げて回りました。
鹿児島弁で「若けとっの苦労は買うてでんせい」の通り、窮地の中で苦楽をともにできて一生懸命だったから、独立後も思い切ってやれて今があるのだと思います。

濵田総一郎

濵田総一郎

はまだ・そういちろう

1955(昭和30)年生まれ。二男。
武蔵大学卒業。
社是「敬天愛人」を掲げて1993(平成5)年、生鮮食料及び酒類業務用スーパーの株式会社パスポート設立。
盛和塾横浜・前代表世話人。

濵田酒造を潰す気か! 濵田龍彦

私は高校の進路指導の時、「将来は麻雀のプロになりたい」と答えたほどで、本来は風来坊です。東京の大学に進んだのは、親の脛をかじりながら麻雀のプロを目指すため。2年の時には実家と音信不通になり、新宿のディスコで社員になって働いていました。
それを探し出し、「そんな生活はやめて家業を手伝え」と兄の雄一郎に怒られ、大学3年の時に中退して、帰ってきたのです。
ところが濵田酒造でも、3カ月くらい働くと、ふらっと東京に行って音信不通になり、お金を使い果たすと帰ってくる。これを3回くらい繰り返したら、クビになりました。
姉の滋子の嫁ぎ先が土木・建築会社の山佐産業で、山佐産業は社員の人間教育に熱心な会社だったため、父の光彦が「うちの息子を預かってくれませんか」と頼み込み、修行させていただきました。
ここでも相当ご迷惑をお掛けしたのですが、懐深い先代社長はじめ社員の皆さまの中で多くのことを学ばせていただきました。このことがなければ、その後の自分はないかもしれません。
1982(昭和57)年に、焼酎ブームで濵田酒造も起死回生の勝負の時と、父に呼び戻されて、2度目の入社。市来や鹿児島の酒屋さんのルートセールスを担当しました。

翌年、東京支店の開設に伴って、私も兄や弟と一緒に上京。私は実動部隊として、営業の現場に張りつきましたが、どういうわけか、行き先々でいろいろな人に可愛がられ、たくさんのことを教わりました。例えば、国分の営業二課に、元プロ野球選手で男気のある営業マンがおられたんですが、「日本橋で仕事をするには、まずスーツをビシッと作らないといけない」と言って私をテーラーに連れていき、取引先には「こいつは俺の子分だから」と紹介してくださいました。
その後、私はグループの若松酒造の営業担当になって、販路開拓のため全国の酒 DSを回ります。飛ぶように売れ、酒類の流通革命が始まっていることを肌で感じました。
いつか独立しようと思っていた私は、自分で酒DSを開業したくなり、父に打診しましたが、「この大馬鹿者、濵田酒造を潰す気か」と猛反対され、踏みとどまりました。
その後、酒DSが広く認知されるようになり、株式会社酒のキンコーを経て、現在は飲食店向けに酒を中心としたサービスを提供する株式会社オーリックを経営しています。

濵田龍彦

濵田龍彦

はまだ・りゅうひこ

1956(昭和31)年生まれ。三男。
濵田酒造の営業を経て、現在、株式会社オーリック代表取締役。
盛和塾鹿児島・前代表世話人。

たくさんの人のご尽力に感謝 濵田俊彦

「兄弟4人で、うちの会社を手伝わんか」
父の光彦からこう打診されたのは、1983(昭和58)年の3月頃。濵田酒造が東京支店を開設する1年前です。
私は父の同郷の大先輩のが東京・築地で経営する会社に入社させていただき、まだ1年ほど。会社を去るのは心苦しかったものの、兄弟で一丸となって、濵田酒造を手伝おうと決意して家業に戻ることにしました。
いったん鹿児島に戻って焼酎業界の基本を勉強した後、再び上京して、今度は問屋さんの同行販売等を通じて、営業を学んでいきました。
東京に進出して1年足らずのうちに、流通在庫過多で失速。未納税酒取引で持ちこたえましたが、ほどなくそれも打ち切られ、濵田酒造はいよいよ厳しくなりました。
そんな時、兄の龍彦が目をつけたのが酒DSでした。酒屋の安売りが御法度の時代、既存勢力の圧力がかかり、酒DSはどこも仕入れに苦労していました。

そこで登場するのが、関連会社の若松酒造です。売上規模が小さく、基本的に卸を通さずに酒屋と取引していた若松酒造は87年に芋・麦・米・そばの焼酎4点セット「若松鬼ごろし」を発売。兄の龍彦が営業担当となって、全国の酒DSにセールスをかけました。評判は上々で、売り上げは順調に伸び、私は1988(昭和63)年から若松酒造の営業を引き継ぎました。
1990(平成2)年に、兄の総一郎が麦焼酎でホワイトリカー2を造ることを発案し、若松酒造は同年に発売します。全国の酒DSから引き合いがあり、大ヒット。濵田酒造も、卸を通じて全国の酒屋へホワイトリカー2を販売するようになり、これで経営は徐々に良くなっていきました。
次の目標は、商品の付加価値を高め、利益率を上げることでした。1994(平成6)年に樫樽貯蔵の麦焼酎「隠し蔵」の発売を皮切りに、「海童祝の赤」「赤兎馬」など高付加価値商品の開発が続き、濵田酒造の現在に繋がっていきます。
振り返れば、本当に多くの人たちと仕事をしてきています。今があるのは先祖代々から今に至るまで節目節目で尽力された役員や社員のおかげでもあります。

濵田俊彦

濵田俊彦

はまだ・としひこ

1958(昭和33)年生まれ。四男。
専修大学卒業。
83年より濵田酒造の業務に携わり、現在専務取締役。
2000(平成12)年よりグループ会社若松酒造の代表取締役社長を兼任。

組織とともに成長していきたい 濵田光太郎

中学から大学まで野球漬けの生活でしたが、大学で初めてホームランを打った試合を、仕事で上京していた父が見にきてくれたんです。帰りの電車で偶然、知人と出くわした父は、臆面もなく、「今日、息子がホームランを打ったんです」と、私の自慢を始めたんです。満面の笑みを浮かべて、無邪気に。
私はそんな父が決して嫌いではなくて、大学卒業と同時に故郷に戻って濵田酒造に就職したのは、父と一緒に仕事がしたかったからです。海外に留学する野心もあったのですが、父と一緒に働けるのはあと数年しかない。それなら今、帰ろうと。
子供の頃から「お前は六代目だ」と繰り返し言われ、中学時代までは反発もしました。でも高校になると、父も「自由にやれ、自己責任だ」と言うようになり、私の野球の話に絡めながら、「お前の今の目標は何だ。それに対して何をしている?」と、目標設定の大切さや実践の方法を、さりげなく教えてくれました。そのあたりから、父親・代表の思いを受け入れられるようになり、その思いを受け継いでいきたいと思うようになってきました。
濵田酒造に入社して驚いたのは、想像よりもスケールの大きい会社だったことと、組織がしっかりしていたこと。半面、オフの時は緩くて、ユーモアのある人が多いです。オン・オフの切り替えが上手なのは素晴らしいですね。

「新酒祭り」の時などは、地元の人と濵田酒造の社員が一緒に盛り上がっていて、晴れがましくなりました。東京や大阪など大都市に支店をつくり、世界市場への進出を目指す一方で、地場産業としての誇りをもって、地元住民や地域社会との繋がりをしっかり意識しているのを感じました。
父は多くの人に支えられてきましたが、経営者としては、孤独の中で厳しい決断をすることも多かったはずです。経営的に大変な頃に入社した父でしたが、状况を決して悲観することなく、失敗から反省・分析を繰り返し、そのたびに明確なビジョンを立てながらこれまでやってきました。
私はそんな父が築いた基盤を大事にしながら、自分自身をも磨いて、組織とともに成長していきたい。野球をやってきたので、人の力を借りないとできないことがあるのは、肌身で知っています。だから、一緒に働いて支えてくれる社員や、周囲への感謝の気持ちを忘れないで、やっていきたい。
でも、孤独な決断の時はきっと来るから、そこからは逃げない、そんな男になりたいです。そして私なりの表現を少しずつ前に出していって、自分なりのやり方で、いつか父を超えたいです。

濵田光太郎

濵田光太郎

はまだ・こうたろう

1994(平成6)年生まれ。雄一郎の長男。
成城大学卒業。中学・高校・大学時代を通じて野球部に所属。
2017(平成29)年4月、濵田酒造に入社。
傳藏院蔵で仕込みの修行から始める。
2018(平成30)年7月、取締役就任。