「本格焼酎を真の國酒へ、さらには世界に冠たる酒へ」を目指し、焼酎造りに取り組んでいる濵田酒造。明治元年(1868年)の創業より150余年、宿場町として栄えていた市来(現・いちき串木野市)で地元の人々に愛され、共存して今日まで歩んできました。
現在、伝兵衛蔵からほど近い市来湊の入江は、東シナ海に面し平安時代から交通の要でした。漁船ばかりでなく大坂や琉球から来た商用の帆船が停泊し、とても栄えていたそうです。
初代・濵田伝兵衛は、幕末から「ヤマハ」の屋号で、油屋や質屋などの商いをしていました。そうした商売の中、家内工業としていたのが「焼酎づくり」。その焼酎が近所で「美味しい」と評判となり、これまでの経験と蓄えをもとに焼酎の製造販売をすることになったというのが、濵田酒造のはじまりです。明治元年、日本が、薩摩が大きく動いた激動の時代でした。
ミュージアムで感じる、先人たちのスピリッツ
(伝兵衛ミュージアム入り口にあるボイラー)
「甕仕込み」、「木桶蒸留」、「甕貯蔵」という伝統の焼酎造りを行っている伝兵衛蔵。その蔵の一部がミュージアムになっており、歴史的にも貴重な品々が展示されています。その中でも特に印象的なのが、入ってすぐに目に飛び込んでくる巨大なボイラー。焼酎造りに欠かせないこのボイラーは、第2次世界大戦前に導入され、この地で活躍したものです。戦時中は大砲の弾にと、鉄製のものがかき集められましたが、レンガで覆われていたことや、従業員、近隣の人たちのおかげで手放すことなく残すことがでたという逸話も残されています。
昭和20年6月に鹿児島を襲った大空襲、翌7月末には艦載機が市来にも迫ります。そして8月9日は湊町市街が焼け野原となり、25名の命が奪われました。しかし焼け跡の煙がくすぶる中、シラス台地の壁に囲われた濵田酒造は奇跡的に無傷でした。
それから数日後に迎えた終戦。三代目・伝兵衛は、戦時中は統制品扱いのため庶民は飲むことができなかった、焼酎の振舞いを行いました。この話を聞きつけ、国道沿いに沢山の行列が隣町まで続いたそうです。
そして、四代目・伝兵衛(光彦)は家業から企業へと舵を切ります。地域貢献のため、小売店やガソリンスタンドなどを兼業して、地域の人たちに雇用機会をつくり、政治家としても郷土鹿児島のために力を注ぎ、現在に続く濵田酒造の礎を作ったのです。
(伝兵衛ミュージアム内の様子)
創業当社から受け継がれてきた味、技、心
明治元年、市来の地で初代濵田伝兵衛によってはじめられた濵田酒造の焼酎づくり。
伝兵衛蔵では、伝統製法による焼酎造りを行い、創業当時から受け継がれてきた味、技、心を大切に今日まで続けています。
伝統の焼酎づくりだからこそ、その日の天気、温度、湿度にも十分気を配り、技と情熱を脈々と受け継ぎ、現在も先人たちのスピリッツと誇りを胸に、ひとつひとつ丁寧に造り続けています。
伝兵衛蔵にあるミュージアムでは、濵田酒造の歴史や守り続けている伝統などを、当時の写真や焼酎造りに使われてきた道具の展示を通して感じることができます。
Information
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