薩摩の歴史を紐解くと、「島津」の名は外せない重要な一族です。中でも戦国時代における島津家の活躍はドラマや小説等でも語られることも少なくありません。その中でも、「義久」「義弘」「歳久」「家久」の島津四兄弟を思い浮かべる方が多いかと思いますが、彼らに負けず劣らず、勇猛果敢な影の英雄として名を轟かせている「島津豊久」という人物をご存じでしょうか。もしかすると、漫画やアニメなどで聞いたことがある方もいらっしゃるかもしれません。
エンタテイメントに登場する人物というのは、歴史上の記録も多くはありません。謎に満ちたミステリアスな存在だからこそ、作家たちは、彼らに想像力を掻き立てられ、歴史の裏舞台で活躍したであろう人物を物語の中心に据え、「もしあの時生き延びていたら」と、ロマンを描くのだと思います。今回の蔵だよりは、串木野の土地で生を受け、今年で生誕450年を迎える「島津豊久」と記念梅酒について書きたいと思います。
生い立ち
島津豊久は、1570年6月11日に島津四兄弟のひとりである家久の子として串木野城(現在の鹿児島県いちき串木野市)に誕生しました。幼名は、豊寿丸で、初めは、島津忠豊と名乗っていましたが、のちに「豊久」と改名しました。家久の死去後は、跡を継いで日向国の佐土原城(現在の宮崎市佐土原町)の主となりました。若き頃より武芸に秀でており、初陣を飾った1584年の沖田畷の戦いにおいて、敵の首級一つを討ち取り、周囲を驚かせたといいます。
関ケ原の退き口
1600年の関ケ原で活躍した叔父の義弘公の銅像は現在のJR伊集院駅前に堂々と佇んでいます。彼が関ケ原から薩摩へ無事帰還するのを支えたのが、豊久だといわれています。関が原で命を落としたと言われる豊久の墓は、当時の関ケ原(現在の岐阜県大垣市)にあります。豊久の叔父である島津義弘は、関ケ原の戦いにおいて、石田三成率いる西軍に参戦しましたが、苦戦を強いられ、徳川家康の東軍に敗れます。退路を断たれた義弘は、切腹する覚悟を決めましたが、叔父が生きて薩摩へ帰ることが今後の島津家には必要だと感じた豊久は、「島津家の存在は、伯父にかかっている。義弘公こそ生き残らねばならない」と考え、「天運は既に窮まる。戦うというも負けは明らかなり。我もここに戦死しよう。義弘公は軍を率いて薩摩に帰られよ。国家の存亡は、公(義弘)の一身にかかれり」と述べ、撤兵を促し、退路を生み出すために、捨て奸(すてがまり)に徹しました。
捨て奸とは、「島津の退き口」としても知られ、本隊が撤退する際に「殿の兵の中から小部隊をその場に留まらせ、追ってくる敵軍に対し死ぬまで戦い、足止めする。そうして小部隊が全滅するとまた新しい足止め隊を退路に残し、これを繰り返して時間稼ぎをしている間に本隊を逃げ切らせる」という戦法。足止め隊はまさに置き捨てであり生還する可能性がほとんど無い、壮絶なトカゲの尻尾切り戦法です(Wikipediaより)。
こうして、豊久は、自らを盾にして伯父の退路を守り抜いたのです。
豊久は、関ケ原の戦いで討ち死にしたと伝えられてはいますが諸説ある人物でもあります。31歳でこの世を去った若き影武者の功績は、歴史の教科書で習うことはほとんどないかと思います。しかし、彼の薩摩や島津家を死に物狂いで守り抜く生き様は、時代を超えて、人の心を惹きつける魅力あふれた人物だと言えるでしょう。だからこそ、その生き様を伝えたい作家たちが紡ぐ小説や漫画などの創作物を通して、戦国時代を生きた英雄のひとりとして今もなお語り継がれているのです。
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