皆さんは、日本史の授業で学んだ偉人の中で印象に残っている人物はいますか?織田信長や坂本竜馬など時代を越えて愛される偉人は、小説や映画などで、その生涯をドラマチックな世界観で表現され、今もなお幅広い年齢層に支持されています。今回の蔵だよりでは、激動の江戸時代後期から明治時代初期を駆け抜け、49歳という若さで幕を閉じた、ひとりの人間のお話から始まります。
その名は、「五代友厚」。
(鹿児島市内にある五代友厚の誕生地)
(大阪株式取引所 ※現大阪証券取引所を設立に尽力)
五代友厚は、江戸時代末期から明治時代中期にかけて活躍した鹿児島県出身の武士・実業家です。大阪経済界に大きな影響を与えたひとりでもあり、大阪株式取引所(現大阪証券取引所)の設立に尽力したことでも知られています。友厚は、1836年12月、鎖国中の薩摩国鹿児島城下で生まれ、幼い頃から、質実剛健を重んじる薩摩の気風の中で育ちました。14歳の頃、琉球の貿易係に従事していた父親は、友厚に世界地図を見せ、その複写を命じたのです。恐らく、日本が外交を制限する中でも、視野を広く、世界に目を向けてほしい、という息子への願いもあったのかもしれません。
1854年(安政元年)、アメリカ海軍のマシュー・ペリーが江戸湾(現東京湾)の浦賀沖に来航した際には、鎖国論者が多い中で開国論者の立場となり、より日本の外への関心を高めていき、翌年には長崎にて藩伝習生として、オランダ士官から航海術を学びます。
1863年(文久3年)7月の生麦事件により勃発した薩英戦争では、薩摩帆船の船長となりますが、敗戦後、イギリス軍の捕虜となるも、産業技術の高さを見せつけられた友厚は、日本の産業の発展のために学ぶべきことが多いと感じ、薩摩藩にイギリスへの留学生派遣を提案しました。それが、「薩摩藩英国留学生」です。
いちき串木野市から英国へ旅たった五代
焼酎蔵「薩摩金山蔵」のある鹿児島県いちき串木野市には、「薩摩藩英国生留学記念館」という幕末薩摩の海外交流や新しい国づくりへの情熱を表現した洋館があります。薩摩藩英国留学生は、「薩摩スチューデント」とも呼ばれ1865年(慶応元年)に、この羽島(はしま)の地から、イギリスへ渡った19人を指します。
1865年4月17日に出港。乗船後は刀を取り上げられ、イギリス人や中国人船員に囲まれ、外国語となれない食事など、その環境は、すでに「外国」であったといえます。現代では珍しくはないですが、日本が鎖国をして独自の文化を育んでいた時期に、自国以外の国に滞在して学問や技術を学ぶ「留学」は、当の本人たちの想像もつかないほどの刺激と衝撃があったかと想像できます。
「幕末の代わりに天皇を置いても経済改革なくしては、日本は生き残れない」と危機感を募らせ、必死の行動力と覚悟で外国から多くを学んだ五代は、帰国後、日本の経済の発展のために貢献することになります。
藩を支えた串木野鉱山の歴史の語り部「薩摩金山蔵」
薩摩藩英国留学生の旅立った羽島の地から車で10キロほどの距離に焼酎蔵「薩摩金山蔵」はあります。五代友厚らが英国へ渡った江戸時代後期、島津光久公が藩主として治めている頃、その鉱脈は見出され、最盛期には約7,000人もの労働者が採掘に従事し、世界有数の産金量を誇った串木野金山。のちに、その歴史を語り継ぐ「継承」の蔵として、2005年に焼酎蔵「薩摩金山蔵」は誕生しました。今年で開業15周年を迎える当蔵は、新たな令和の時代も変わらず、300年以上続く串木野鉱山と、450年以上の歴史を誇る焼酎の魅力を伝える“語り部”として存在しています。
いかがでしたでしょうか。今回の蔵だよりでは、49歳という短い人生の中で多大な功績を残した鹿児島を代表する偉人「五代友厚」と、彼と共にいちき串木野から旅立った薩摩スチューデントの足跡を学べる「薩摩藩英国留学生記念館」、そして、金山の歴史と共に本格焼酎の魅力を語り続けている焼酎蔵「薩摩金山蔵」についてご紹介しました。