この立派なお方は『芋焼酎の育ての親』と言われている人物なのですが…一体どこのどなた?正解は、幕末の名君として名高い薩摩藩第11代藩主・島津斉彬公です。もしや、斉彬公は芋焼酎が好きだったとか?いえいえ、斉彬公と芋焼酎の関係はそんなもんじゃないんです。
近代日本と共に産声を上げた芋焼酎。
この銅像、ものすごく大きいでしょ?それだけ鹿児島で尊ばれている存在なんですね。島津斉彬公は下級武士だった西郷隆盛や大久保利通を発掘したことからもわかる通り、先見の明に優れていました。だからこそ幕末の時代にいち早く西欧列強のアジア進出に危機感を抱いていたのだそう。
西欧に対抗するために必要なのは軍備の近代化です。それまで日本で使われていたのは火縄銃。当時はまだ軍艦もありませんでした。そこで斉彬公は、雨天でも発泡できる雷汞(らいこう)という砲弾や軍艦を製造できるよう、製鉄など機械工業の操業を始めました。これが日本最初の洋式産業群『集成館事業』です。
でもそれと焼酎に何の関係が?実は関係おおありなんです!こうした近代工業には大量の工業アルコールが必要です。工業用アルコールは米焼酎を蒸留する際に得られるんですが、米を使うと庶民が食べる分が不足してしまう。ならば、安価な穀物であるサツマイモを使ってアルコールを大量生産しようと思い立ったんです。
そして彼は、「余ったアルコールは薩摩の特産品にせよ」と命じます。ナイスアイディアですよね!こうして芋焼酎はあっという間に広がり、庶民の酒として定着したんです。「芋焼酎の歴史って意外と浅いのね」と思う方もいると思いますが、そこにはこんな壮大なストーリーが隠されていたんですね。
時は過ぎ、斉彬公の願いどおり、芋焼酎は鹿児島の特産品の代名詞となりました。そして、その人気は今や鹿児島のみならず、全国の人に愛されるお酒へと成長を遂げています。先見の明がある斉彬公だから、こんなに人気が出ることも予想していたのかもしれませんね。
こうして見てみると、芋焼酎の歴史は薩摩の歴史であることを実感します。そんな芋焼酎の造り手として、私たちは斉彬公の名に恥じぬおいしい芋焼酎をこれからもずっと造り続けていきますよ!