天文館は老舗の百貨店や専門店、飲食店などが集まる南九州随一の繁華街です。一般的に東千石町や山之口町、千日町などを中心とした一帯を天文館と呼んでいます。でも、実際に天文館という地名がある訳ではないのでその範囲の捉え方は人によって様々。飲食店が並ぶグルメ通りには、江戸時代につくられた石の祠(ほこら)「地神様(じがんさ)」があり、2度の大火災ではここを境に火が止まったと伝えられています。
蘭癖大名に由来する薩摩文化の拠点。
『天文館』の名前の由来は、1779年、島津重豪が、天文・暦学研究、暦編纂のため天文観測所「明時館」を設置したことに由来します。江戸時代、幕府が暦を貞享暦に統一した後も、薩摩藩だけは幕府の許しを得て薩摩暦をつくり、藩内で使用。重豪は作暦の正確さを期するため、天文学者水間良実に命じ「明時館」をつくらせました。「明時館」は現在の鹿児島市東千石町15番地付近にあり、記念碑が建てられています。宇宙ロケット基地・鹿児島の宇宙との繋がりは江戸時代から始まっていたんですね。
写真左/第25代島津家藩主(第8代薩摩藩主)の島津重豪は蘭癖大名と言われるほどの洋学通で、積極的な開化政策を導入。造士館、医学館、明時館(天文館)を設置しました。写真右/天文館を象徴づけるアーケードの敷石の多くには、天体や宇宙と薩摩の関係を表したモチーフがたくさん見つかります。
写真左/現在の山下小学校前の辺りに、萩原天神社という神社がありましたが、正徳の大火によって焼失。昭和13年に千石天神社として再興されました。その後、鹿児島大空襲の度に焼け残り、商売繁盛・家内安全の神として愛されています。写真右/アーケードの敷石には、星座にまつわるロマンチックなモチーフも見つかります。
時代の移り変わりとともに変化を遂げてきた街、天文館。通り名などから歴史を辿ると、昔の街が浮かび上がります。市電が通るいづろ交差点近くに立つ石灯籠は当時「いっどろ」と呼ばれ、地名の由来となりました。山形屋1号館裏から朝日通りまでは材木屋が多かったので「木屋町通(きやんまっどおい)」、現在の中町ベルグ通りには野菜の露店が集まり「野菜町通(やせまっど)」、なや通りは江戸時代に藩指定の魚市場があって「納屋馬場(なやんばあ)」と呼ばれ、「中町」は城下町の中央市場でした。鹿児島の過去と未来を結ぶ天文館へ、銀ブラならぬ「天ブラ」に出かけませんか…。
Information
天文館
鹿児島県鹿児島市千日町