10代の頃、日本の未来のために、家族のもとを離れ、ふるさとを離れて、遠い異国の地へ旅立つ勇気はありますか?彼らはそれを成しえたのです。
さかのぼること150年前、1865年薩摩から19名の20歳前後の若者たちが、日本の将来を背負って遠い異国の地「英国」へ旅立ちました。(表向きには「奄美大島」などの国内の島々へ旅立ったことになっています。つまり密航留学です。)彼らは、薩摩藩英国留学生、「薩摩スチューデント」です。(出発当時の彼らの平均年齢は21.6歳。)彼らの残した功績を目で見て体感できるのが、鹿児島県いちき串木野市羽島ある「薩摩藩英国留学生記念館」です。記念館は2014年夏に開館し、2018年3月には、入館者15万人に達成しました。館内では、1865年に英国へ密航留学に旅立った19名の若き薩摩藩の留学生一行のそれぞれの人物に関して、留学に至った経緯、また、英国までの旅路でのそれぞれのエピソードなど写真や動画など交えながら紹介されています。
そもそもなぜ薩摩藩の若き青年たちがはるか遠い「英国」へ派遣されることとなったのでしょう。これは、1862年9月に起きた、ある事件がきっかけでした。江戸城入りしていた薩摩藩国父島津久光一行が、武蔵野国生麦(現横浜) 付近を通過中に、日本見物中の英国人リチャードソンを薩摩藩士が切りつけたことで起こった「生麦事件」です。日本の風習を知らなかった彼らは、騎乗したまま島津久光一行の列を横切り、それが無礼だということで薩摩藩士に切り付けられてしまいました。翌年の8月、賠償問題を直接交渉しようとイギリス艦隊が鹿児島湾にやってきます。イギリス艦隊が薩摩藩の蒸気船を拿捕(だほ)し、火をつけたことで薩英戦争が勃発します。激戦となりますが、武器や食料が底をついたイギリス艦隊は横浜に帰っていきました。3回の講和を経て、和解が成立。薩英戦争時に、イギリス側の捕虜になった薩摩藩士五代友厚(ごだいともあつ)はその後、潜伏していた長崎の地で、トーマス・グラバーと出会い、西洋の造船などの近代技術、先進的な産業技術を英国で学ぶことの大切さを、薩摩藩に上申書を提出します。富国強兵に取り組んでいた薩摩藩は、英国への留学生派遣を決定。そうとはいえ、当時の日本は鎖国中であり、名目上は周辺の島々の調査ということで、留学生として選ばれたメンバーは名前を変えたうえで、出発することとなりました。
薩摩スチューデントのなかには、のちに初代文部大臣になった森有礼(もりありのり)やカリフォルニアでワイン醸造に成功し「ブドウ王」と呼ばれた長沢鼎(ながさわかなえ)、現在のサッポロビールの前身である開拓使札幌麦酒醸造所を設立した村橋久成(むらはしひさなり)など、のちにわが国で活躍していく人物たちがメンバーとして、英国へ留学しています。150年も前にわが国から国禁を犯して旅立ち、学びを得たスチューデントの活躍が今に繋がっているのです。
ゴールではなく、スタートとして
今回案内をしてくださったのは、記念館建設に携わった市役所観光交流課の奥ノ園さん。「小さな施設なので、ご来場された皆さんにお伝えできるように案内をすることが大事だと思っています。明治維新150年をゴールとしてではなく、スタートとしていちき串木野市を盛り上げていきたい。」と話してくださいました。薩摩スチューデントが若くで近代技術を学んだように、現代の若い方々には先人たちの古き良き知恵や伝統を受け継ぎつつ、常に新しい文化・学びを得ることが出来るよう、私たちも考えていかねばなりませんね。
実は、薩摩スチューデントの中には、帰国後に兵庫県生野鉱山の開発に取り組む朝倉盛明(あさくらもりあき)や、ここいちき串木野市・羽島鉱山の開坑に多大な援助をおこなった五代友厚など鉱山の開発に携わった人物もいるんですよ。私たち、焼酎蔵薩摩金山蔵ではそんな昔の偉人たちが携わった金鉱山跡地で焼酎の製造と貯蔵を行っています。皆様に美味しい焼酎をお届けできるのも、薩摩スチューデントのおかげかもしれませんね。ちなみに、金の産出量が多かった串木野金山は、当時の薩摩藩の貴重な財源だったのだそうです。
そんなロマンのあふれるまちいちき串木野市に、ぜひ皆さんも足をお運び頂き、薩摩スチューデントたちが英国へ旅立ったこの地で春風を感じてみませんか。
Information
薩摩藩英国留学生記念館
鹿児島県いちき串木野市羽島4930番地
TEL:0996-35-1865
営業時間:展示観覧10:00~17:00 カフェ・ライブラリー等(※季節による)
休館日:火曜日(火曜日が祝日の場合は翌日)
URL:http://www.ssmuseum.jp/
薩摩藩英国留学生記念館から、焼酎蔵薩摩金山蔵へのアクセス:車で約18分